逆に具体化する法令があれば憲法に書き込むことは不要である。

むしろ、日本国憲法という法典に強いこだわりを見せているのは、後述のように改憲派の側であったと解すべきであろう。
もとより、そのような古典的改憲論は60年代半ばには沈静化に向かった。
しかし、現在の改憲論が当時のそれと断絶しているわけではないことは、現在のわが国を代表する改憲論者である安倍首相が、かつて自著新しい国への中で日本国憲法に象徴される、日本の戦後体制であるところの戦後レジームからの脱却をうったえていたことからも明らかで あろう。
加えて、自民党が2012年にまとめた日本国憲法改正草案も全面的な改憲を企図していた。
このように、改憲論の底流に一貫して流れているのが日本国憲法の正統性への疑義であったという事実は、わが国の憲法論議を考える際に忘れてはならないように思われる。
以上の歴史が教えるのは、表面上は個々の条文の是非を巡って議論が展開されているように見えても、背後では日本国憲法それ自体の是非を巡る闘争が繰り広げられているという、わが国の憲法論議の特徴である。
改憲に賛成か反対かという質問が通用するのも、ここでは日本国憲法についての政治的な立場が問われているのだという社会的な共通了解が存在するからだろう。
こうした特徴を理解して初めて、不合理な改憲案が手を 変え品を変え提起されてきた理由も了解し得るように思われる。
例えば、多くの改憲案に見られる環境権の加憲について見ると、環境権は抽象的な権利であるため、具体化する法令がなければ憲法に書き込んでも無意味だし、逆に具体化する法令があれば憲法に書き込むことは不要である。